視覚障害者にとってのパソコンは,QOLを高めるための極めて有益なツールとなっています。
そのことを多くの方々に理解していただくためにも,その歴史的な背景をたどることは無意味ではないと思い,ここに浅学非才を省みず拙文を記してみることにしました。肩のこらない読み物を目指していますので,どうぞごゆっくりとおつきあいください。
まずは,その歴史が最も長いと思われる県立鹿児島盲学校のことから書いてみたいと思います。
本校にパソコンが初めてやって来たのは昭和62年3月のことです。
では,本校の人々が,いわゆるコンピューターというものと出会ったのが,この時かというと,更に7年前に遡ることができます。
それは,文部省の特殊教育設備整備事業によって各盲学校に配置された「点字教材作成装置」(通称ブレイルマスター)というものの登場にあります。 昭和55年秋のことだったと記憶しています。
松下電気が開発したこの機器は,同社のマイブレイン800というミニコンをベースに作られたもので,点字の文書を作成・編集し点字高速ラインプリンターで高速印字できる他,点字を読み取るためのスキャナーや仮名文字プリンターまでついていました。また,当時の記憶媒体はフロッピーディスクで,それも8インチでした。
ただ,残念なことに,まったく視覚障害者が使用することを考慮していませんでしたので,音声は出ませんので,専ら,睛眼者の先生方が使用しておられました。
しかし,何といってもビックリするのは,この機器のお値段です。1台が800万円もしたのです。今から38年も前の800万円ですから,大変なお金だったと思いますし,そのような予算があれば,今なら,最高級のパソコンをいったい何台購入できるのでしょうか。時代の流れというものは恐ろしいものです。
なお,このブレイルマスターは,谷山への移転をも考慮し,平成21年2月13日にスクラップ業者に処分をお願いし,現在は,もうありません。
そんなことで,視覚障害を有する職員や生徒たちは,このブレイルマスターは使用せず,多数部の印刷物が必要な時には,ずっと以前からあった「点字製版・印刷機」を使用していたのです。
また,昭和50年代の終わりから,昭和60年代の初めになりますと,いわゆるワープロ専用機が一般的にも市販されるようになり,本校でも数台の機器が購入され,職員室で使用されはじめました。
さて,パソコンが本校に初めて入ったのは,昭和62年3月だったと書きましたが,これは熊本県にあるI眼科よりの寄贈でした。
当時は,日本電気(NEC)のパソコンが主流を占めており,この時にいただいたものもPC9801UV21というもので,それにAOK点字ワープロ,漢字プリンターなど一式で70万円ぐらいだったと記憶しています。
何しろ,音声を頼りに視覚障害者が普通の文章が書けるとあって,大変な人気でした。
それまでは,視覚障害者が一般の方に読んでもらえる文字を書こうと思えば,カナタイプライターを使用する他ありませんでした。本校でも,昭和40年代から50年代にかけては,故・松田功先生の熱心な指導により,「ノリマキト ハチマキ」などと言いながらキー入力の練習をしたものです。
その年の10月,すなわち,昭和62年の秋には,理療科に200万円の予算がつき,パソコンなど多くの周辺機器をも含めて購入していただきました。
この時に,理療科で購入したハードウェアとしては,パソコン本体,ディスプレイ,漢字プリンター(インパクトドット方式のカラープリンター),イメージスキャナー,点字プリンター(翼システム),音声合成装置,A/Dコンバーターなどであり,ソフトウェアも,当時で入手可能な視覚障害者用のソフトはほとんど購入したと思います。
この財源は,文部省特殊教育設備整備事業(通称,職業教育充実事業)によるものでした。
昭和63年の1月であったと記憶しています。
当時,鹿児島県で実施されていた「コアラ計画」という事業により本校にも310万円の予算が配分され,11台のパソコンが整備されました。
因みに,この「コアラ計画」というのは,「県内の学校にパソコンを整備しよう。」というものでした。
その時に整備されたパソコンは,やはり当時,最もシェアの高かった日本電気(NEC)のPC9801VM21でした。
現在のパソコンからしますと,CPUも10MHz,メモリーも640kbと比較にはなりませんが,当時にしてみれば最新機器です。
もちろん,ハードディスクなどは内蔵されていませんので,装備されている5インチのフロッピーディスクドライブ2台からすべてのソフトウェアを読み込ませることになります。
土曜の4校時は,必修クラブとなっており,当時,「パソコンクラブ」にも多くの生徒が入っていていろいろなことに取り組んでいました。
OSも,N88日本語BASICで,サンプルプログラムを入力し,簡単なソフトが実行できることなどを確認したものでした。
また,小学部の児童の中にも,C言語を勉強し,プログラミングに取り組んでいる人もいましたので,彼にとっても良い思い出になっていることでしょう。
一方,私たち,教員は,まず使用したのが点字教材の作成でした。睛眼者の先生方は,前述の「ブレイルマスター」をご使用になる方も多かったですが,視覚障害を有する教員は,これに飛びつきました。
このパソコンが入ったころは,まだ点字を編集したり,印刷したりするための適当なソフトウェアがなく,自分たちでそれらしきものを作成したりもしました。
このパソコンと同時に整備されたのが2台の点字プリンターでした。前年に理療科で購入したものと同じ機種で,とても大きな音が出ます。
この点字プリンターですが,当時のものは,点字を1文字ずつ打点して行きますので,1頁を印刷するのに,相当な時間を要しました。しかし,1台が55万円もしたのです。
この他に,その時に整備していただいた周辺機器としては,AOK点字ワープロ,音声合成装置(VSSー100)などがありました。
そんなころでした。本校の普通科3年生が鹿児島大学を受験するということで,これらの機器を鹿児島大学の学生会館に持ち込み,泊りがけで活字の問題を点字に直しました。本校から7〜8名の教員が出かけました。
当時の点字エディターは,まだ頁単位でしか編集できず,画面に表示されている点字を見ながら 「これをどうしても活字で表示してほしい。」 といわれた教授先生には困ってしまったことも思い出されます。
何故なら,点字を活字に変換して表示しますと,当時のソフトウェアでは行があふれるなど,レイアウトが崩れてしまうのでした。
この時に使用したソフトウェアが,「ブレイルスター」と呼ばれるもので,駄洒落の好きな○○先生などは,「ブレイルマスターから『マ』が抜けたのがブレイルスター」などと毒にも薬にもならないことをいっておられたものです。
昭和63年にコアラ計画によってパソコン11台が整備されたことはすでに述べました。
その後,平成9年と平成15年に更新され,現在に至っていますが,これらについては,また後述するとして,それまでの間に本校に対して寄せられた多くの善意についてもお知らせし,感謝の誠を捧げたいと思います。
まず,平成2年には,讀賣「光と愛の事業団」山内基金より約70万円のご寄付を受け,当時,使用していたPC9801VM21の表示画面をハードウェア的に拡大表示したり,黒白反転表示できるPC WIDE(1台が38万円)やAOKワープロを購入させていただきました。
また,平成4年には,日本アイ・ビー・エム社が,全国の盲学校70校に対して,各校300万円相当のパソコン及び周辺機器を寄贈してくださいました。
その内容は,当時,MS-DOS上で動作していた辞書検索システムと,アメリカのTSI社製のピンディスプレイ,国産の点字プリンター(JTR社製 NEW ESA721),専用の点字入力キーボードなどでした。なお,点字プリンターだけは,まだ現役で活躍中です。
このパソコンにインストールされている辞書検索システムでは,「光村の国語辞典」,「プログレッシーブ英和・和英辞典」,「大辞林」の検索ができました。
例えば,「大辞林」は,点字に直しますと,何と500冊にもなります。普通,家庭などにあるスチール製の本棚には,点字の本でしたら約50冊は入りますから,この「大辞林」を点字の辞書として書蔵しようと思えば,この書棚が10本はないといけないことになります。
また,実際に,辞書を引こうと考えても,500冊の中から自分が知りたい単語をさがし出すのがいかに大変かは想像に難くないことと思います。
パソコンを使用すれば,知りたい単語を入力し,数秒も待てば,その単語がピンディスプレイ上に表示される訳ですので,この辞書検索システムがいかに辞書を引く上での強力なツールとなったかはおわかりいただけると思います。
また,このシステムにインストールすることを目標に,多くの点訳ボランティアの方々の努力により,小学館の「ランダムハウス英和大辞典」も点訳されました。何と,本書の点訳書は800冊にもなっています。
その後,平成8年には,1年のうちに,2件ものご寄贈がありました。
まず,一つ目は,NHK厚生文化事業団から「歌謡チャリティーコンサート」の収益金の中からAOKワープロ一式(総額50万円)をいただきました。
また,同年の10月には,鹿児島南州ライオンズクラブ創立35周年を記念して,60万円ものご寄贈をいただき,当時,まだ,本校には整備されていなかったOCRソフトとスキャナーを用いた視覚障害者用の音声読書器(ヨメール)などを購入させていただきました。
このように振り返ってみますと,平成2年から8年までの7年間の間に500万円近いご寄贈をいただいたことは,本校における情報教育に多大な力となっていることは今さら述べるまでもないところです。
本校にパソコンが整備されたのは,昭和63年1月であったと書きました。
それから9年後の平成9年4月に本校にとっては第2代目のパソコンたちがやってきました。
もちろん,その間には,教材備品の中から,1年に1台ぐらいの割合で新しいパソコンを購入していただくように常にお願いしました。
平成5年には,本校の創立90周年の記念行事がいろいろと行われました。
記念文化祭では,特に,卒業生の方々が関心を寄せ,よろこんでいただけるようにと「情報機器の展示会」を開きました。
国内はもとより,国外の製品についても,借りることのできる機器については相談してみました。
それを観に来てくださった本校の校長であられた故・原園信夫先生より
「大分,ハードが古くなったね。」
というおことばをいただきました。
先生は,数学の教師として,昭和50年代からパソコンを数学教育に取り入れられた本県におけるパソコン教育の先駆的な方でした。
従って,視覚障害教育におけるパソコンの重要性も十分に理解してくださっておりましたし,そのようなご経験をふまえてのご発言でした。
なお,昭和63年に整備されたものが買い取りであったのに対し,平成9年のそれはリースでした。
当初5年リースの予定が6年に延長されることになるのですが,その時の予算がパソコン9台及び周辺機器を含めて440万円でした。
平成9年といえば,OSはWindows95が発売されていましたが,Windows98が発売されるまでの狭間にあった時期でもありました。
機種の選定ですが,点字文書の作成などまだまだNECの9800シリーズのソフトウェアを多く使用していたこともあり,PC9821V13に決定しました。
当時,使用していたソフトウェアとしては,盲学校においては,無くてはならない点字エディターであったBASEなどは,NECのこのシリーズのパソコン上でしか動作しませんでした。
OSも,Windows95を使用することもありましたが,どちらかといえば,MSーDOSを使用していました。
当時は,ワープロソフトも,MS-DOS上で動作する「一太郎ver4.3」でした。
ただ,Windowsの画面を読んでくれるスクリーンリーダーは,まだ開発されておらず,画面を見ることのできる人たちが操作するWindowsを指をくわえてうらやましく見ているばかりでした。
本校でインターネットへの接続が可能となったのは,平成12年の初めのころです。
インターネットへ接続するための専用のパソコンと点字プリンター,点字ディスプレイ装置なども準備されました。この時の予算がおよそ200万円でリースの型になっていました。
なお,接続が始まったころの回線は,ISDN回線でしたが,当時は,まだ校内LANもなく,パソコン室からだけのアクセスが可能でした。
平成13年の9月になり,ブロードバンドへの仲間入りができました。
本校は,収容局からの距離はわずか880メートルと非常に良い条件にあるのですが,ブロードバンドでは最も遅い1.5Mbpsであり,当時は,これに校内LAN上にある50台近いパソコンがぶらさがっており,決して快適とはいえませんでした。
しかし,平成19年の10月からは,現在の鹿児島県総合教育センター経由ではなく,一般のプロバイダー経由で,しかもNTT西日本の光プレミアム回線でのインターネット環境が提供されています。
一方,校内LANですが,まず,小学部あたりで自主的にLANケーブルを引き回し,校内LANのはしりが始まりました。
このようなことは好きでないとなかなかですが,当時は小学部に,A先生やK先生がおられたからだと思います。
その後,平成13年の夏には,業者によって,パソコン室から南校舎にある理療科のパソコン5台や物理療法室,図書室との間のLAN環境が整備されました。
更に,平成15年の3月には,職員室の隣りにある印刷室のHUBから職員室へと配線工事が行われました。これは,前年度まで本校におられ,転勤後,若くして他界なさったT先生のご遺族からいただいた資金の一部が基になっています。ここに明記し,改めてご冥福をお祈りいたす次第です。
そして現在では,職員室には活字2台と点字1台のネットワークプリンターがあり,各教員の机の上から印刷ができるようになっています。
これまでの工事は,ほとんど業者の方にお願いすることが多かったのですが,平成15年秋の,職員室の隣りの印刷室から保健室への工事,平成16年4月の,パソコン室から寄宿舎の事務室を経由して栄養士室,舎監室,面会室への工事は,私と他1名による自家工事でした。
パソコン室から60メートルのLANケーブルを,パソコン室の北側と寄宿舎の図書室の南側にシンブルを用いて固定し,その後事務室にHUBを置き,50メートルのケーブルで栄養士室へ,30メートルのケーブルで舎監室と面会室へそれぞれ引き回しました。
この時に使用したLANケーブルの総延長が170メートルでした。
更に,平成18年の1月になり,保健室から理科室までの配線工事が業者によって行われ,その他,体育教官室や音楽室への工事など細かな工事は必要に応じて行なわれました。
その後,平成23年3月末には,谷山の新校舎へ移転しましたので,教室,会議室など,すべてにLAN環境が整備されています。また,教育ネット鹿児島のネットワーク環境も,セキュリティーの問題をも含めて,強化されました。
電子データをプリントアウトするということは,すでに紹介したブレイルマスターが登場した時(昭和55年)から行われていました。
本校にパソコンの周辺機器としての点字プリンターが初めて導入されたのは,昭和62年10月に理療科の職業教育充実事業(前述)による「文書作成装置および電子計算機一式」が整備された時です。
この時に購入した点字プリンターは,翼システムのBPR-OT-40Iで,55万円でした。
本プリンターは,印字音が非常に大きいため,消音ボックスと称して木製の箱がオプション品として販売されており,その箱だけの値段が確か5万円以上はしたと記憶しています。
そして,翌年,コアラ計画によって11台のパソコンが導入された時にも,周辺機器の一部として,同じ機種の点字プリンターが2台導入されました。
従って,この時点で,北校舎のパソコン室に2台,南校舎の理療科の生理実験室に1台と合計3台の点字プリンターが可動していた訳です。
このプリンターで使用される専用の用紙は,横10インチ,縦11インチという大きさで現在のそれが,横8インチ,縦10インチ(B5サイズに相当)であることを思えば,かなり大きめでした。また,打ち出される点字も現在,L点字として少しずつ市民権を得つつある大きめの点字でした。
その後,日本アイ・ビー・エム社が全国の盲学校にパソコン一式を寄贈してくれた時(平成4年)に,同時に点字プリンターの寄贈もあり,当時の白雷商会(現在のJTR社)のNEW ESAー721(108万円)が稼動を始めました。
これは,前述の機種が片面印刷しかできなかったのに対して,表裏同時印刷ではないものの,両面印刷ができるという優れものでした。また,用紙の大きさもB5サイズとなりました。
また,本プリンタは,グラフィック機能も有し,3種の点の大きさを組み合わせることにより,プロッターのように作図も可能でした。同機は,現在でも現役で活躍中で,エーデルで作成した点図の打ち出しや点訳絵本の印刷に使用しています。
しかし,作図といっても,点字で表現できるDOTの数には制限があり,一般的な作図とは異なるものです。
平成5年に入り,本校は創立90周年を迎えました。
記念事業の一つとして,PTAや同窓会から寄付金を募り,その時に寄せられた200万円以上のお金の中から,当時,印字音が静かで,両面同時印刷ができ,かつ高速印字ができると定評のあった東洋ハイブリッド(現在,日本テレソフトに吸収)のBPWー32を180万円で購入しました。
当機は,現在,職員室の隣りの印刷室で早朝から夕方まで,毎日のように元気に働いています。すでに,25年以上が経過しているにもかかわらず,耐久性の高さにも驚いています。
続いて本校に整備された点字プリンターは,平成7年に文部省が3年計画で実施した事業で,「盲学校点字情報ネットワーク事業」(現在では,視覚障害教育情報ネットワークに改称)で,前述のJTR社のNEW ESA-721(108万円)が導入されました。
本機も,パソコン室で現役で活躍中で,エーデルの点図や点訳絵本はもちろん,いろいろな場面で使用しています。
点字プリンターの整備も,この後も多くなされました。盲学校においては,点字教材の作成は必要欠くべからざるものだからでしょう。
時系列的に記しますと,まず,平成12年には,平成5年に90周年記念事業で購入した機種と同じ日本テレソフト社製のBPW-32(180万円)を,同じく平成12年に,点字と活字を同時に併記してプリントアウトできる日本テレソフト社のBMP-320(126万円)が整備されました。
更に,平成12年にインターネットの設備が整備された時に,テクノエイド社製のBT-3000(48万円)も同時に整備されました。
その後,上記の点字プリンターのバックアップ用に日本テレソフト社製のTP-32(80万円)が購入され,現在に至っています。
ここで整理しておきますと,点字プリンターだけでこれまでに900万円以上の予算が執行されていることになります。
更に,平成19年8月には,県内の篤志者の方より500万円のご寄付をいただき,その中から点字プリンター1台を購入し,現在は職員室に設置しネットワーク点字プリンターとして使用させていただいています。
また,現在,実動中の機器はパソコン室にあるそれが4台,職員室の隣りの印刷室にあるそれが2台,職員室でネットワーク点字プリンターとして使用しているのが1台となっています
創立100周年記念誌に書き残したデータによりますと,平成14年6月現在での点字プリンター用の用紙の消費量は,およそ年間6万枚とありますが,現在では,点字使用者の減少,ファイルサーバーを使用することにより,電子データ化の実現,消資源化などにより減少しており,年間の使用量は,3万枚を下回るようになりました。
通常使用される点字は仮名文字だけであり,活字の文書を点字にして印刷しますと相当な量になることはすでに述べました。
そこで,復習の意味も込めて再度紹介しますと,これまでに点字に直された活字の書籍で最も頁数の多いのは,私が知る限りにおいては,小学館の「ランダムハウス英和大辞典」で,800巻にもなると書きました。
実際に,この辞書を用いてある単語を引くと考えると,気が遠くなるような思いです。
最近では,携帯電話に辞書機能を内蔵したものさえあるぐらいですから,比べるべくもありません。
そこで,登場して来た文明の利器が「ペーパーレスブレイル ピンディスプレイ」です。
ペーパーレスとは,「紙のいらない」という意味であり,ブレイルとは,点字を発明したフランスのルイ・ブライユに因んでつけられた点字の呼称です。
では,ピンディスプレイについて説明してみましょう。これは点字の六つの点に対応したピンがその装置の持つマス数だけ配置されています。ここに六つの点と書きましたが,実際には,カーソルの役目を持たせたりで8個のピンが配置されている場合がほとんどです。
例えば,16マスタイプとか,46マスタイプなどいろいろな機器がありますが,詳細は写真をご覧ください。
本校において,このピンディスプレイが初めて導入されたのは,平成2年のことで,KGS社のJ-COM40A(55万円)という機種でした。
これは,理療科において購入した痛覚閾値測定装置(ペインメーター)の測定結果をピンディスプレイに出力させ点字で読み取るために購入したものでした。
本器も,かなりの間,上記の実験機器の表示装置として,また,プログラミングの際のディスプレイ表示を点字で確認するなどの時に便利に使用しました。
つづいて,導入されたピンディスプレイは,[本校に対して寄せられた多くの善意]のところで紹介しました日本アイ・ビー・エム社からの点訳辞書システムに付属していた米国のTSI社製のナビゲータ40(75万円)でした。
点訳された辞書を引く時には,大変便利に使用させていただきました。
時は流れ,次に本校に導入されたピンディスプレイは,平成12年のことで,インターネットの回通時に,点字プリンターと同時にリースされたブレイルノート46C(45万円)でした。
そして,4台目となったのが,現在,理療科で使用させていただいているブレイルメモ46D(45万円)です。
また,平成21年7月には,鹿児島市にお住まいの篤志家の方より情報機器を購入するようにと50万円のご寄付をいただき,その中からブレイルテンダー46を購入させていただきました。
その他,視覚障害を有する本校の点字使用の職員のうち,3名が個人の所有物としてブレイルメモ16/24を使用しています。
また,上記のブレイルメモも,非常に小型化されたものが発売されるようになり,今後の導入が期待されるところです。
更に,本校には現有しないものの,2次元的な図形表示に使用できるピンディスプレイとして,開発されたものも,参考となればと思い,写真を掲載させていただきます。
ただ,これらは,安いものでも68万円,その一つ上の機種となりますと120万円もし,宝くじにでも当選しないと購入できそうにはありません。
アメリカのペンシルバニア大学で,17,468本の真空管を使って作られたENIACコンピューターが世界で初めてできたのが昭和21年のことですから,それから四半世紀が過ぎようとする昭和40年代の半ばのお話です。
そのころは,まだ,コンピューターという言い方よりも電子計算機という言い方の方が一般的で,もちろんパソコンなどというものも存在していませんでした。なお,この電子計算機という用語は,法律用語では今でも電子計算機といわれます。
盲学校で「養護・訓練」(現在の「自立活動」)といわれるものが始まった昭和46年ごろ,児童・生徒たち,そして視覚障害を有する職員の間で交わされた会話の中に
「コンピューターを使用して音声で確認しながら普通の文字を書くことのできる器械ができればいいのになあ。」
というものがありました。前述もしましたが,視覚障害者たちの多くが,カナタイプライターを使用して普通の文字を書いていたころのことです。
カナタイプだと音声は出ませんので,インクリボンのインクが無くなっていてもわからず,ハガキの上にハンマーで叩いた活字の跡だけがあるものを,郵便屋さんが配達してくださったなどという話を聞くものでした。
そして,10年が過ぎようとするころ,コンピューター技術は確実に進歩し,視覚障害者用のワープロが開発されました。昭和57年ごろのことです。
当時は,日本電気のPC6601やPC8801,そして富士通のFM8などの8ビットマシーンを使用したものでしたが,数十万円もの値段がしました。
人間の欲求はとどまるところを知らず,私たち視覚障害者の間でも,普通の文字を書くことのできる機械が開発された直後から,今度は普通の文字を読むことのできる機械が欲しいという話になりました。
昭和63年,「工業技術院」(現在の産業技術総合研究所)が「盲人用読書器」というものを試作しました。なお,この研究には,当時のお金で数億円の予算が投じられたといいます。
しかし,これは試作機であり,製品開発の3ステップである【基礎研究】→【実用化研究】→【製品化研究】のうち,【基礎研究】だけで終了したと聞いています。
また,この時の試作機は,何と1,500万円もしたのです。
本校に,視覚障害者が活字の本を読むことのできる「読書器」が初めて導入されたのは,平成8年の秋のことでした。
前述もしましたが,鹿児島南州ライオンズクラブの35周年を記念して,本校に60万円ものご寄付をくださいました。
その中から,パソコン一式とスキャナー,視覚障害者用のOCRソフトである「ヨメール」を購入させていただきました。
その後,平成10年に「箸箱」ぐらいの大きさの小型スキャナーを用い,携帯性に優れた「ヨメールライト」が備品として製備されました。
更に,平成13年には,「マイリード」が,平成16年には,「よみとも」がそれぞれ学校の備品として整備され,現在に至っています。
また,一般用に開発されたOCRソフトの中にも音声環境で使用することのできるものもあり,これらを使用すれば,スキャナー,OCRソフト,パソコン一式で10万円もあれば視覚障害者用の読書器のシステム構成が可能となり,ソフトウェア及びハードウェア面の烈しい進歩にただ目を見張るばかりです。
活字版の辞書を点訳すると,「新明解国語辞典」は50冊に,「新コンサイス英和辞典」は100冊に,「大辞林」は500冊に,そして「ランダムハウス英和大辞典」は800冊になります。また,これらのうち,前2書は点字の書籍として販売されておりますが,後2書は人力を要して点訳されたのですが,書籍として存在するのではなく,電子データとして存在し,パソコン上で使用するようになっています。
以上のことからだけでもわかるように,点字しか使用できない人が辞書を利用することは大変な作業です。しかし,パソコンを使用すれば,非常に簡単に辞書の検索ができます。
さて,本校でも平成2年にAOKワープロ上で使用できる「三省堂新明解国語辞典」(点訳すると50冊になります)が,ハードディスク内に収まった「声の国語辞典」として発売され,本校でもそれを使用できるようになりました。
ただ,当時の値段といえば,現在ではだれも信じてくれないような値段です。すなわち,40MB(メガバイト)のハードディスクが11万8,000円,そして,辞書のインストール料金が2万円で合計13万8,000円でした。今なら,ノート型パソコンが1台,もしかしたら2台も買えそうな値段です。
ハードディスクの容量の単位を間違っているのではないかとお考えの方もあるかも知れませんが,現在なら,この2万倍の容量を持ったハードディスクを当時の10分の1以下の値段で購入できますから,20年前のハードディスクの値段に比べますと20万分の1以下になったことになります。
しかし,多くの視覚障害者たちが,こぞって,この辞書を購入しました。それほどに,辞書を自由に引きたいという欲求は強かったものと思われます。
余談はさておいて,次に行きましょう。
次に本校に導入された辞書システムは,ソニーの電子ブックプレイヤーで,これはRS-232C経由でパソコンと接続し,AOKワープロ上から辞書を引くことのできるものでした。
なお,その時に使用したソフトウェアは,EBボイスと呼ばれました。
当時,販売されていた「広辞苑」や「大辞林」,「現代用語の基礎知識」や「家庭の医学」など多くの電子ブックを検索できるようになりました。
なお,この電子ブックプレイヤーは,平成4年,平成6年,そして平成8年と合計3台が本校に導入されました。
また,平成4年には,日本アイ・ビー・エム社が「光村の国語辞典」や「プログレッシブ英和・和英辞典」,「大辞林」,「ランダムハウス英和大辞典」を前述の点字ピンディスプレイ上に表示しながら検索できるシステム(1セットが300万円)を全国の盲学校70校に寄贈してくれました。
更に現在では,Windows上で動作する各種の検索ソフトを使用し,CD-ROMに入った書籍や辞書の検索も可能となっています。
また,高知システム開発がリリースしているマイディックを使用すれば,インターネット上にある各種の辞書の検索も可能ですし,パソコン内にキャッシュしたCD-ROMの検索もできます。
これからの希望として,音声で使用できる携帯電話では辞書が引けるようになったのですが,一般に販売されている「電子辞書」を音声対応にしてもらえれば,どんなに視覚障害者にも役に立つことでしょうか。
辞書を人に頼らずに引くことができるのは,とてもうれしいことです。人に頼んで辞書を引いてもらったことのない人にはわかりにくいかも知れませんが,あまりにも簡単なことは頼みにくいのです。
「なんだ,こんな簡単なことも知らないのか。」
といわれてしまいそうだからです。
パソコンを用いた作図についてお話しする前に,それ以前から行われている多数部の点図を作る方法について説明してみましょう。
まず,最も古くから行われていた方法として,点字印刷と同じように,2枚重ねの亜鉛の板に1点ずつ点を打ち,その点の集合として図形を表現する方法があります。
この場合には,点字印刷の時のように,2枚の亜鉛板の間に点字用紙をはさみ,点字印刷機に通すことにより点図が作られます。
上記の写真のように,およそA4判,厚さ2センチメートルの鉛の板の上に,前述の亜鉛の板を乗せ,1点ずつ打っていくのです。
非常に原始的な方法のように見えますが,現在もこの方法が広く行われています。しかし,教科書などの点図はハンマーを用いるのではなく,やはり1点ずつであることは同じなのですが足踏み式で点を打ち出します。
教科書の点図は,おそらくパソコンで作っているのだろうと考えておられた方も多いと思いますが,そうではありません。まさに,職人技に近い形で血の滲むような努力がなされているのです。
そのような理由により,点字の教科書の値段は,活字の教科書の100倍近くもする場合があるのです。
その他の方法として,真空整形器(サーモフォーム)を用いてプラスティックを整形して図形を表現する方法や,発泡インクを用いた立体コピー器なども活用されてきました。
さて,ここからパソコンによる図形の作成について書いてみましょう。
まず,昭和62年10月に「文部省特殊教育設備整備事業」(通称,職業教育充実事業)により,当時のお金で200万円相当のパソコン及び周辺機器が,理療科へ整備されたことはすでに述べました。
その中に,RS-232C経由でPC9801VM21に接続して使用するスキャナーがありました。
このスキャナーと点字プリンターを用いて手書きの図形を点字プリンターで印刷するソフトの提供を受けました。
これは,当時奈良県立盲学校の喜多島先生が作られたもので,当時多く普及していたN88BASIC上で動作するソフトでした。
鉛筆で図形を書き,それをスキャナーで読み込み,しばらくすると点字プリンターから自分が書いた図形が印刷されるというのは,なかなかの感動ものでした。
また,このソフトは折れ線グラフや棒グラフ,円グラフなども点字で書くことができ,とても素晴らしいものでした。
その後,日本アイ・ビー・エム社が「点訳広場」のボランティア用として開発した点訳ソフトであるBEに作図機能を付加したBEGが登場してからは,専らこれが使用されるようになりました。平成5年ごろのことです。
なお,この時に使用していた点字プリンターは,作図機能を有することで定評のNEW ESA721です。
更に,「エーデル」(平成10年)や「点図くん」(平成12年)も使用していますが,中でも「エーデル」に関しましては,必ず盲学校に初めて転勤して来られた先生方には,その使用法を紹介させていただいております。
その他,「点訳絵本の会」が作ってくださった多くの点字の絵本をAEPというソフトを使用して印刷もしています。
このソフトは,エーデルで書いた点図とBASEで書いた点字の文書を同時に印刷するためのソフトで,本校の図書室においても小学部の児童向けに多くの点訳絵本が作られています。
また,最も新しい試みとして,フリーハンドで書いた図形をスキャナーで読み取り,作図ソフトを介して点字プリンターへ出力したり,デジタルカメラで撮影した画像の中から輪郭のみを取り出す編集を行い,それを点字プリンターへ出力することもできるようになりました。
我が国で日本点字が制定されたのは1890年のことであり,カナタイプの活用が始まるまでのおよそ80年間は,視覚障害者にとっての点字は唯一無二の文字であったといっても決して過言ではなかったと思います。
しかし,古く歴史をたどれば,この文字さえ存在しなかった時代に,塙保己一は「群書類従」という未来永劫にその価値が失われることのないであろう書籍を世に問うています。
現在,わが国の視覚障害者の数はおよそ30万人といわれ,その高齢化率の進行にも起因するかと思われますが,点字の識字率はわずかに10%であるといいます。
さて,いずれにしても視覚障害者にとっては,極めて有効な意思伝達の手段として点字は存在しています。
本校における点字の活用という観点からは,児童・生徒が児童・生徒会活動,総合的な学習や臨床体験報告会の中で点字の資料を作成し配付したり,職員では,日ごろの学習資料の配付,試験問題の作成,各種の行事に伴う計画書の配付などが考えられます。
多数部の点字文書を作成する方法として,点字製版機で原版を作り,点字印刷機で点字用紙に印刷する方法があることはすでに述べました。
また,1980年には,「本校におけるパソコン草創期」で述べました「ブレイルマスター」の利用もありました。
では,本校におけるパソコンを活用した点字文書作成の歴史を振り返ってみましょう。
点字の文書をパソコンで作るには,それを印字するための点字プリンターが必要です。前述しましたように,点字プリンターが初めて導入されたのは,昭和62年10月であり,しばらくの間は,N88BASICで簡単なエディターを作成し,それを用いて文書を作り,印刷のためのコマンドを実行して印刷していました。
その後,平成2年に,ニューブレイルシステム(NBS)のブレイルスターを導入しました。
ブレイルスターも,最初のバージョンは,ページ単位の編集であるなど,決して使用しやすいソフトではありませんでしたが,点字による資料の作成や試験問題など,多くの場面で使用されました。
平成3年に入り,点訳ボランティア向けに開発されたBASE(ベース)を本校でも使用するようになりました。このソフトは,六点入力やローマ字入力,カナキー入力ができるなど,フリーウェアであるにもかかわらず,大変優れたソフトでした。
なお,このBASEは,MS-DOS上で動作するソフトですが,現在でも点字プリンターに接続しているパソコンでは,使用され続けています。
なぜ,このソフトが使用されるかといえば,MS-DOSのため,起動に要する時間が非常に短いことや,動作が安定していることなどを挙げることができます。
更に,点字を書くためのソフトとしては,平成11年ごろからは,Win-BESというwindows上で動作するソフトも使用するようになりました。
これは,ほとんどの先生方が所有しておられるパソコンのOSが,Windowsへと移行して行ったことによります。
一方,点字の文書を作るもう一つの方法として,自動点訳ソフトを使用する方法があります。
まず,平成元年8月27日,電気通信大学で開かれた「視覚障害者の文書処理を考える会」という勉強会で配布された「障害者用ソフトパック」編集および配布元:小山智史(弘前大学/福祉システム研究会)の中に,「80%自動点訳ソフト」というものがありました。
このソフトは,通称「80点」と呼ばれ,正しく点字に変換してくれる率が80%だということからでした。
当時は,まだハードディスクも大変高価であり,フロッピーディスクで動作させておりましたので,頻繁にフロッピーディスクとアクセスを繰り返し辞書を参照しながら点字に変換していくには,相当な時間が必要でした。
しかし,活字の文書を0の状態から点字に書き直すのではなく,この変換ソフトを使用すれば容易に点字化が可能であり,しかもフリーウェアのソフトとあって多くの人々が使用しました。
その後,静岡県立大学の石川先生が作られた有名なEXTRAを平成4年に,更に平成12年には,そのバージョンアップ版を購入し,現在では,多くの職員が,このソフトウェアを使用しています。
この変換ソフトを使用すれば,新聞記事を点字に変換し,すぐに生徒に配布できるとか,長文の活字文書を簡単に点字に変換し,ピンディスプレイ上で読むなど,点字の文書処理は,飛躍的に向上しました。
以上のように,点字の文書を作るソフトすらなかった時代,ブレイルスターやBASEを用いた時代,そして,EXTRAを用いて漢字カナ混じり文を直接点字に変換する時代へと,点字文書を作る手段も大きく変容してきました。
わが国で日本語ワードプロセッサーが開発されたのは,昭和54年の東芝製のJW−10が初めてです。
視覚障害者が一般の方にも読んでもらえる活字を書く手段としてカナタイプがあり,昭和40年代から使用されていたことはすでに記したとおりです。
しかし,その頃から,視覚障害者たちの中でもコンピューターを用い,音声環境で使用できるワープロの開発は熱望されていました。
本校に,この音声環境で使用できるAOKワープロが導入されたのは,昭和62年3月で,熊本県のI眼科からの寄贈であったと書きました。
その後,昭和62年10月と,昭和63年1月にも同型機が導入され永く使用しました。
ただ,この頃のワープロは,現在のような詳細読みはなく,文字はすべて長谷川式の六点漢字方式による読み上げでした。
すなわち「鹿児島には,桜島という火山があります。」と書くには,「ロクシ ジヒ トウシ ニハ オウサ トウシ トイウ カヒ サンヤ ガアリマス。」という文字を音声を聴きながら選択することになり,漢字の音読みと訓読みや部首がよくわかっている人には使用できたのですが,そうでない人には適切な漢字の選択という意味では大変でした。
また,この頃には「拡張辞書」といって,「東洋医学辞書」「西洋医学辞書」「歴史・人名辞書」および「地名辞書」などの,通常使用しない漢字や熟語を入力しやすいような辞書も開発されました。
さらに,「本校に寄せられた多くの善意」のところでもご紹介しましたように,「讀賣愛と光の事業団」(平成2年)と「NHK厚生文化事業団」(平成8年)からも,それぞれ1台ずつのAOKワープロのご寄贈がありました。
なお,このAOKワープロも開発後,間もなく漢字の詳細読みができるようになり,先ほどの文章なら「動物の鹿 育児・児童の児 半島の島・島 さくら色の桜 半島の島・島 火曜日の火 山脈の山」と読んでくれるようになり,その人の漢字の知識に応じて使用できるようになりました。なお,六点漢字といって,直接漢字を入力することもでき,高等部や中学部などにおいて,漢字指導の一環としてこのワープロを使用して漢字指導が実践されたこともあります。
さらに,このワープロ上で使用できる「声の国語辞典」(平成2年)や電子ブックの検索用ソフトであった「EBボイス」(平成4年)なども開発され,このワープロを使用しながら同時に辞書なども引くことができるようになりました。
そして,平成7年に「盲学校点字情報ネットワーク事業」が整備された際に,4台のNECのパソコンが導入されましたが,その時に,高知システム開発のマイワードMS-DOS版)が4台入りました。
その後,平成12年,平成14年と同じく高知システム開発のマイワード(Windows版)が導入されています。
また,このマイワードも最近のバージョンでは,MS-WORDとのファイルの互換性を持たせたり,画像の編集が音声でできたり,他の同社のアプリケーションソフトとの連系がなされるなど,20年以上に及ぶ開発のノウハウが集大成されています。
視覚障害者がパソコンの操作を行う場合,ディスプレイ上の文字を読むことはできませんので,ディスプレイ上に表示された文字やアイコンを専用のソフトウェアとハードウェアを使用して音声で読み上げる必要があることはすでに述べました。
では,この音声の出るパソコンがいつごろ本校に導入されたのでしょうか。
昭和62年3月に,熊本県のI眼科よりAOKワープロをいただいた時には,AOKワープロ専用の音声合成装置が付属しており,これから音声が発声されました。
電子回路を介して発声される電子音ですので,慣れないと大変聴きにくいですし,相当な集中力を要しますので,最初のうちは,夜眠っている時にうなされるような感じでした。
そして,昭和62年10月に,理療科にパソコンが導入された時には,このAOKワープロの他に,中条電気製のYL-V30という音声合成装置が導入されました。この音声合成装置は,本体内部に漢字を読むためのROMが内蔵された優れものでした。
この時に同時に導入されたソフトウェアにより,このYL-V30という音声合成装置から出る音声を頼りにN88BASICを音声環境で使用してプログラミングなどもできるようになりました。
更に,昭和63年1月には,パソコン室に11台のパソコンが入り,同時に三洋電気のVSS-100という音声合成装置が導入されました。
この音声合成装置を使用して音声を発声するソフトとして,VDM98Kがあり,N88BASICを音声環境で使用し,プログラミングもできました。
しかし,とても聴きにくい音声でしたが,その後,VSS-300にバージョンアップされてからは,聴きやすい音声となりました。
更に,AOKワープロに付属してきた音声合成装置から音声を出すためのソフトも開発され,かなり聴きやすい音声でプログラミングもできるようになりました。
次に,MS-DOSへとOSが移行し,それに対応したソフトウェアも導入されました。極一部には,パソコンが持っているビープ音を利用して音声を発声するシステムもありましたが,ほとんどは外付けの音声合成装置を接続する必要があり,例え,ノート型パソコンといえども音声合成装置を持ち歩かないといけないというのはとても不便でした。
また,富士通のFMVS-101,通称VSUという音声合成装置が導入され,これは現在でもMS-DOSのソフトで点字プリンターを動かしているパソコンやピンディスプレイに接続されているパソコンである9821では使用されています。
時は流れ,Windows3.1からWindows95へとバージョンアップされ,これらに対応したスクリーンリーダーが開発されるようになり,Windowsを音声環境で使用できるようになりました。
本校でも,高知システム開発のPC-TALKERやシステムソリューションセンター栃木の95Reader,日本アイ・ビー・エム社のJAWSなどを導入しました。
また,これらに使用されている音声合成エンジンも肉声に近いものが開発され,非常に聴きやすく,疲労も少なくなりました。
ここに掲載した内容は,主に下伊敷時代の内容が中心で,谷山へ移転してからの内容が追加できていません。機会を見て,更新しなければと思っております。どうぞご期待ください。