色変と共に

鹿児島市視覚障害者協会

小野里 進

 私の目の障害は「網膜色素変性症」と言います。少しずつ視野が狭くなり,ついには,まったく見えなくなる病気です。以下,訳して「色変」と称します。小学5年生の時に色変と医者から宣告され,鳥目だった私は,就学旅行の時,懐中電灯をバックに忍ばせて行ったことは忘れません。

 中学校の時からメガネをかけ始め差ほどの不自由も感じずに高校,社会人となり,東京で,工場勤務,大手スーパー勤務,NTT関連広告代理店など転々と職場を変えながらも,視力のコンプレックスを隠し続け,人並の仕事をしてまいりました。

 もちろん,つらい事,くやしい事,悲しい事,悩み,失敗,トラブル,等,色変だからこそ起こるさまざまな出来事が有りました。おそらく,この,視覚障害者協会の皆さんも私以上の悩み苦しみが,数え切れないほど有った事と思います。なにしろ,自分は正常な目なんだと思わせて,目の悪い事は,一切職場の誰にも打ち明けていませんでした。今,考えてみると,この時期が一番辛かった様に思えます。

 見えてるふりをしなくてはならない,そして皆んなと同等に見て欲しい,皆と違う自分を見せたくない,そんな気持で一生懸命であったに違いありません。

 しかし,隠し通せるはずがありませんん。ある時期から,白い杖を携帯する様になり,自然と目の悪い事を知って頂く様になりました。この時から気持ちがすっかり軽くなりました。もう隠すことはないんだ,ありのままの自分で過ごせる事が,とても気持ちを楽にさせました。

 杖一本持つ事で,いや,自分をさらけ出すことにより,本当に気持ちが軽やかに感じました。見える振りをする必要は無くなりました。それから,しばらくして,少しづつ,仕事に支障を感じ,このまま今の仕事はちょいと無理かなと思い,そこで,私の人生を大きく舵を切り換えました。35歳の時です。この時,考えたのは,人生の中間地点,半分は普通の生活が過ごせたのは,「もうけものだ」,「後半の人生は,盲人として生きて行くのもまあ良いか」。後少し,全盲まで残された時間を備えの為に過ごそうと,思い将来のことを考え,見えなくてもなんとか生活する事ができるように鍼,灸,マッサージの資格を取らねばと思い東京視力障害センター,現在の国立リハセンターに入所し,資格を取り,さらに,このセンターで,良縁を得る事が出来,またこれも人生の大きな出来事でした。そして病院勤務を経て開業しました。生活と仕事の理想を追って平成元年鹿児島に移転し,25年間の治療院経営を続ける事ができました。

 この治療院は,まったく見えなくなっても治療院に通えるように,マンションの5階が自宅,同じマンションの1階に治療院を確保し,通勤になんら支障のない形をとることが出来ました。もちろん,東京から,鹿児島に移転するにあたっては,夫婦して,視力障害を持っているので,まずは,生活しやすい場所,車の運転が出来ないので,交通,買い物,病院その他,環境など,総合的に検討し,鹿児島市の中でも便利な,理想的な住まいと治療院を確保できました。

 私は,転々と仕事を換え,この治療院の営みをしましたが,この仕事こそ,色変の障碍者にとって,一番良い仕事だったと思います。誰にも気を使わず,それこそマイペースに仕事が出来,人に喜んでもらえる仕事,誇れる仕事,信頼される仕事,収入もある程度見込める事が出来る仕事です。本当に幸せでした。

 仕事が軌道に乗ってから,将来,年を取ってからの,趣味を持たなければ,と思い,柄でもなくバイオリンを5年ほど習い,ものにはなりませんが,楽しみました。

 またその後,音声パソコンをハートピアで,指導して頂き,さらにパソボラひまわりの皆さんにパソコンのご指導を頂き,パソコンが少し出来る事により,趣味の範囲が一段と広がりました。この事は,私にとって革命的出来事でした。

 パソコンで知り合ったメール川柳「まんぼう」に入り,川柳も趣味の一つに加わりました。鹿児島県の川柳の会,雑草の会員に入り,ラジオ,新聞などにも投稿,JRPSのメール川柳の会まで入会,現在一番の趣味になって,川柳作りに忙しい毎日を過ごしています。

 それも,これも,パソコンを知った事がきっかけでした。文字を,読む,書く,手紙,ハガキを書く,そんな事は,パソコンが出来なかった時までは,考える事が出来ませんでした。このことも大きく人生を変えたと言えます。また,それに加えて,同行援護の制度は,これもまた,視力障害者にとって,本当に有りがたい制度で,心より喜んでいます。この制度を利用して,川柳の勉強会にも,一般の人と同様参加出来,うれしく思います。また,仕事を辞めてからの運動不足を解消したく,運動ジムにも同行援護のお世話で毎週通うことが出来て喜んでいます。

 このようにして,いろいろな,生活のために必要な事がこの社会の福祉として,さまざまな形で私達の周りに有り,それを,我々が利用させて頂くことで,昔の盲人の生き方と数段恵まれた生活が出来るようになったと思います。

 その他にも,いろいろな,盲人用グッズ,テレビの音声多重とかも増え,楽しめるものが多く現れ,恵まれてまいりました。

 私の人生を振り返ると,同じ視力障害でも,色変は,比較的恵まれた視力障害かと感じます。痛いわけでも無く,急にまったく見えなくなるものでないので,備える時間が有るからです。見える間に,社会経験も出来,社会を有る程度理解し経験した後に徐々に全盲になります。したがって,全くみえなくなるまでに,準備や,覚悟が出来るのです。さらに,医学の進歩により,近い将来不可能だった網膜再生が出来る時代が来ます。こう考えると,色変で悩み苦しんだのが今になると,何だったのか,とさえ,思えます。

 このように考えられる様になったのも人生73歳までの体験をしてきたからではないかと思います。

 若い色変の方には

 1, 出来る限り早目,早目に見えなくなっても困らない様な準備をする事です。

 2, 障害年金の手続きを早めに。

 3, 福祉機器や制度を有効に利用する。

 4, あまり目を酷使しないようにしてください,進行を,早めてしまいます。

 5, 気持ちは,前向きに,友人を沢山持ち,正眼者の友人もいるとたすかります。

 6, ニュース,情報,など,常に関心を持ちましょう。

平成27年度 鹿児島市視覚障害者協会会報第1号より転載致しました。


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